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家族でも生徒でもない“こども”と、親でも教師でもない“おとな”が、“あそび”の中で出会い、気負わず楽しく居合わせる機会づくりに励む「こりれいず」。 代表のす〜さんが、活動や日々の出来事、思いついたことなどを羅列しています。どうぞ、 おつきあいください。 活動の予告・報告は Instagram(@korireizu) Facebook (@こりれいず仙台) でも確認できます。

2007

0305
「インクルーシブアートの可能性」と題したシンポジウムに参加してきました。

とても面白く、タメになる有意義な内容だったと思います。

ただ、ちょっとだけ気になることが...


1年ちょっと前に、今日の出演者のひとりから聞いたインクルーシブアートの話。

「障がいのあるなし、年齢、性別、国籍などに関わらず、あらゆる人たちを含んで成立するアート」との話を、そのようなアートの成立のしかたへの興味と、また、その可能性について感動を覚えながら聞いたことを覚えています。

今回、そのときの気持ちを思い出しながらシンポジウムを拝聴しました。

で、気になったこと、というのは、具体的にパネリストの発言の中に言葉としては出てこないのだけれど、どうも、「障がいのある人」ということがカッコつきの前提で話されているような印象を受けてしまった、ということ。

前述のように、私の理解しているインクルーシブアートは、障がいのあるなしを乗り越えるだけの話ではなく、年齢も性別も国籍も、経歴も社会的立場も、その人を表現するあらゆる修飾語を乗り越えていく表現のあり方だと思っていたので、どうも聞いていて落ち着かない。

もちろん、障がいのある人たちが、障がいのない人たちの想像もつかないような社会的な苦労を背負い込まされているであろうことを、想像し、その視点を大切にすることに異論をはさむつもりは髪の毛の先ほどもないのですが、う~ん。

私の理解では、私もインクルーシブアートの当事者として、作品としての質はともかく、関わる余地があるかもしれないと感じていたものが、部外者だったのかなと居心地の悪さを感じてしまうのです。

そして、このままではインクルーシブアートが、障がい者アート(エイブル・アート? アウトサイダー・アート?)の関係者にしか受け入れられないのでは、という余計な心配も。

その辺の気持ちや心配を、うまく言葉にできないのだけど。

世の中には、そのままでは、自分らしくあり続けることを阻害されてしまう人たちがたくさんいます。障がい者もそうですが、長期療養が必要な病人、事件・事 故の被害者、児童虐待の被害者も加害者も、ドラッグ・アルコールなどの依存症患者、路上生活者や車上生活者など。あるいは環境によっては、高齢者や子ども なども、範疇に入るのかも...

ストレス過多社会になったこともあり、自分もいつ心を病むかもしれない。そんなときに、自分らしさを尊重した表現行為を生み出していく、というインクルーシブアートの取り組みが、どれだけ自分の中に可能性を残してくれることか。そう考えてしまうのです。

もちろん、すべてを一度に、ということは物理的にも限りなく不可能に近いと思います。でも、活動の視野や、展開の間口の可能性だけは、最大限に広げていてほしい、切にそう願うのです。

誰かのためでもあり、そして、このあまりに身勝手な私のためにも。
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